はじめに

新潟県新発田市にある月岡温泉。
硫黄の香りとエメラルドグリーンの湯で知られ、現在では多くの旅館や店が並ぶ温泉地となっています。
そんな月岡温泉ですが、その始まりは少し意外なものでした。
実は、温泉を探していて見つかった場所ではありません。
きっかけは、石油の採掘でした。
大正時代、この地域では石油を採掘するために地面を掘っていました。ところが、掘削を進めている途中で、石油ではなく熱い湯が噴き出したのです。
新発田市では、大正4年(1915年)、石油掘削中に偶然熱湯が噴き出したことをきっかけに月岡温泉が開湯したとしています。
もちろん、最初から現在のような温泉街があったわけではありません。
湧き出した温泉が利用されるようになり、人が集まり、やがて湯治場として発展していきました。
その後、旅館や店が増え、月岡温泉は「新潟の奥座敷」と呼ばれるほどの温泉地へと成長します。
しかし、100年以上の歴史の中には、多くの観光客でにぎわった時代だけでなく、旅行の仕方が変わり、温泉街が大きな転換を迫られた時代もありました。
そして現在の月岡温泉は、旅館に泊まって温泉を楽しむだけではなく、温泉街を歩いて楽しめる場所へと変わってきています。
石油を掘っていたことから偶然始まった月岡温泉は、どのように現在の温泉街になったのでしょうか。
この記事では、大正時代の開湯から現在まで、月岡温泉が歩んできた100年以上の歴史を順番に紹介します。
月岡温泉が生まれた場所

月岡温泉は、新潟県新発田市にある温泉地です。
現在は新発田市に属していますが、2003年(平成15年)に旧豊浦町が新発田市へ編入されるまでは、北蒲原郡豊浦町に位置していました。
月岡温泉の誕生を知るうえで、まず押さえておきたいのが、新潟県と石油の深い関わりです。
現在の新潟県から石油をイメージする人は少ないかもしれません。しかし、新潟県では古くから原油の存在が知られ、明治時代に入ると各地で本格的な石油開発が進められるようになりました。
特に明治後期から大正時代にかけては、新潟県が国内の石油生産を支えた時期もありました。
新発田市周辺も、その石油開発と無関係ではありませんでした。
月岡周辺では石油を求めて井戸が掘られ、その掘削が後に月岡温泉誕生のきっかけとなります。
つまり月岡温泉は、もともと温泉地として開発が始まった場所ではありません。
新潟で盛んだった石油開発の歴史の中から、偶然生まれた温泉地だったのです。
そして大正時代、石油を求めて地下深くまで掘り進めていた井戸から、思いがけないものが噴き出します。
それが、現在まで100年以上続く月岡温泉の湯でした。
大正4年(1915年)|石油掘削から月岡温泉が誕生

月岡温泉の歴史が始まったのは、大正4年(1915年)です。
前の章で紹介したように、当時この地域では石油を求めて掘削が行われていました。
その掘削中、地中から偶然熱い湯が噴き出します。
これが、月岡温泉の始まりです。
新発田市の資料にも、大正4年(1915年)に月岡で石油を掘削していたところ、偶然熱湯が噴出し、それをきっかけに月岡温泉が開湯したことが記されています。
しかし、温泉が湧き出しただけで、現在につながる温泉地が自然にできたわけではありません。
月岡温泉が温泉場として歩み始めるうえで関わった人物のひとりが、本間周三郎氏です。
日本旅館協会の資料によると、石油業者が解散した後、石油組合の専務理事だった本間周三郎氏が、湧き出した温泉の効能を生かして温泉場を経営することを思い立ったとされています。
石油を求めて始まった掘削によって、偶然発見された温泉。
その湯を人々が利用できる温泉場へとつなげる動きが始まり、月岡は少しずつ湯治場として歩み始めました。
こうして、石油を求めて井戸が掘られていた場所は、やがて人々が温泉を求めて訪れる場所へと変わっていきます。
この小さな湯治場が、後に「新潟の奥座敷」と呼ばれる温泉地へと発展していくことになります。
湯治場として始まった月岡温泉

大正4年(1915年)に偶然発見された月岡の温泉。
現在のように旅館や店が並ぶ温泉街が、すぐにできたわけではありません。
月岡温泉の最初の姿は、温泉に入りながら体を休める「湯治場」でした。
湯治とは、温泉地に滞在しながら何度も湯に入り、体を休める昔ながらの温泉利用の方法です。
月岡でも、石油掘削によって湧き出した温泉が利用されるようになり、湯を求めて人々が訪れるようになりました。
日本政策投資銀行の資料でも、月岡温泉は大正時代に石油掘削中に温泉が湧き出し、湯治宿として人気を集めたことが紹介されています。
当時の月岡は、現在のように街歩きや食事、買い物を楽しむ観光地ではありません。
まず人を引きつけたのは、地中から湧き出した温泉そのものでした。
温泉を求めて人が訪れる。
訪れた人が滞在する。
そうした積み重ねの中で、月岡は少しずつ温泉地として歩み始めます。
石油を求めて掘られた場所に温泉が湧き、その温泉を求めて今度は人が集まるようになったのです。
この小さな湯治場が、やがて大きく姿を変えていきます。
月岡温泉が次の発展を迎えるのは、戦後から高度経済成長期にかけてのことでした。
高度経済成長期|「新潟の奥座敷」と呼ばれる温泉地へ

湯治場として始まった月岡温泉は、戦後になると少しずつその姿を変えていきます。
大きな転機となったのが、昭和30年代から始まる高度経済成長の時代です。
日本の経済が成長し、人々の暮らしが豊かになるにつれて、温泉の楽しみ方も変わっていきました。
かつてのように、温泉地に長く滞在して体を休める「湯治」だけではなく、温泉旅館に泊まり、料理や宴会などを楽しむ観光としての温泉旅行が広がっていきます。
月岡温泉も、こうした時代の変化とともに発展していきました。
旅館やホテルに多くの宿泊客が訪れるようになり、月岡は湯治場から、多くの観光客を迎える温泉地へと変わっていきます。
そして高度経済成長期には、「新潟の奥座敷」と呼ばれるほどの温泉地としてにぎわうようになりました。
大正4年(1915年)、石油を求めて掘られた井戸から偶然始まった月岡温泉。
その小さな湯治場は、半世紀ほどの間に、新潟を代表する観光温泉地へと大きく成長したのです。
しかし、月岡温泉のにぎわいはここで終わりません。
その後、交通網の発達や団体旅行の増加などを背景に、さらに多くの観光客が月岡を訪れる時代を迎えていきます。
団体旅行でにぎわった月岡温泉

「新潟の奥座敷」と呼ばれるようになった月岡温泉は、その後も観光温泉地として発展していきました。
特に昭和後期になると、日本では会社の慰安旅行や地域の団体旅行など、大人数で温泉旅館を訪れる旅行が盛んになります。
月岡温泉も、こうした団体旅行の時代とともににぎわいを見せました。
当時の温泉旅行では、大型の旅館に宿泊し、大広間で食事や宴会を楽しむという過ごし方が一般的でした。
月岡温泉でも、旅館の中で温泉、食事、宴会を楽しむことが旅行の大きな目的となっていきます。
また、宴席を盛り上げる月岡芸妓も、温泉地の文化を支えてきました。
現在も新発田市では月岡芸妓の踊りを披露する事業などが行われており、その文化が受け継がれています。
こうした時代を経て、月岡温泉は新潟県内でも広く知られる温泉地へと成長していきました。
しかし、長く続くように見えた温泉旅行の形も、やがて大きく変わります。
1990年代に入ると、月岡温泉はそれまでとは違う時代を迎えることになります。
1990年代以降|バブル崩壊と月岡温泉の停滞

「新潟の奥座敷」として、多くの観光客を迎える温泉地へと成長した月岡温泉。
しかし、1990年代に入ると大きな転換期を迎えます。
きっかけのひとつとなったのが、バブル経済の崩壊でした。
日本政策投資銀行と新発田市観光協会の共同調査によると、月岡温泉では1990年代以降、バブル崩壊とともに宿泊客が減少していきました。
それまで温泉地のにぎわいを支えてきた旅行の形も、少しずつ変化していきます。
大人数で旅館に泊まり、宴会を楽しむ団体旅行だけでなく、家族や夫婦、友人同士など、少人数で旅行を楽しむ人が増えていきました。
こうした時代の変化の中で、月岡温泉では宿泊客が減少し、閉鎖する店や空き店舗も増加していきます。
かつて多くの人でにぎわった温泉街は、厳しい時代を迎えることになりました。
しかし、月岡温泉はそのまま衰退していったわけではありません。
「旅館に泊まるだけの温泉地」から、温泉街そのものを歩いて楽しめる場所へ。
月岡温泉では、この状況を変えようとする新しいまちづくりが始まります。
その大きな節目となったのが、「開湯100年祭」が行われた時期でした。
開湯100年祭|「歩いて楽しめる温泉街」への再生

宿泊客の減少や空き店舗の増加など、厳しい時代を迎えていた月岡温泉。
その流れを変える大きなきっかけとなったのが、開湯100年祭でした。
新発田市では、2014年(平成26年)から2016年(平成28年)を「開湯100年祭」として、これからの100年を見据えた温泉街づくりが進められました。
そこで目指したのが、旅館の中だけで過ごす温泉地ではなく、「歩いて楽しめる温泉街」です。
取り組みの中心となったのは、月岡温泉の若手旅館経営者たちでした。
温泉街に増えていた空き店舗を活用し、新潟の食や文化を楽しめる店づくりが進められていきます。
その代表的な店舗のひとつが、新潟の地酒を楽しめる「新潟地酒 蔵」です。
その後も、新潟の干物や発酵食品を扱う「旨」、煎餅の手焼きや絵付けを体験できる「田」、新潟県産ワインを楽しめる「香」、米をテーマにした「米」、県産の果物や野菜を楽しめる「実」など、新潟らしさを生かした店が温泉街に増えていきました。
これによって、月岡温泉での過ごし方も少しずつ変わっていきます。
旅館に到着して、そのまま館内で温泉や食事を楽しむだけではなく、外へ出て温泉街を歩き、店に立ち寄り、新潟の食や文化に触れる。
温泉街そのものを楽しむという、新しい月岡温泉の形がつくられていったのです。
新発田市の資料では、こうした空き店舗を活用した取り組みによって、温泉街を歩く観光客が大きく増加したとされています。
かつて石油掘削をきっかけに生まれ、湯治場から「新潟の奥座敷」へと発展した月岡温泉。
開湯100年祭を契機に、今度は「歩いて楽しめる温泉街」へと新しい一歩を踏み出しました。
現在の月岡温泉|100年以上続く温泉街へ

大正時代、石油掘削をきっかけとして誕生した月岡温泉。
湯治場から始まり、高度経済成長期には「新潟の奥座敷」と呼ばれる温泉地へと発展しました。
その後、宿泊客の減少や空き店舗の増加という厳しい時代を経験しながらも、月岡温泉は時代に合わせて姿を変えてきました。
現在では、旅館で温泉や料理を楽しむだけでなく、温泉街を歩いて楽しめることも月岡温泉の魅力のひとつとなっています。
温泉街には、足湯「湯足美」をはじめ、月岡温泉発祥の地に整備された「源泉の杜」、2018年に誕生した「月あかりの庭」などがあります。
さらに、日本酒やワイン、米、発酵食品、菓子、工芸品など、新潟の食や文化に触れられる店も点在しています。
旅館を出て温泉街を歩き、気になる店に立ち寄る。
かつて団体旅行でにぎわった時代とは違う、新しい月岡温泉の楽しみ方が生まれています。
一方で、現在も月岡温泉の中心にあるのは、開湯のきっかけとなった温泉です。
温泉街には硫黄の香りが漂い、「源泉の杜」では月岡温泉発祥の地を現在に伝えています。
石油を求めた掘削から偶然始まった月岡温泉は、100年以上を経た現在も、その歴史を受け継ぎながら変化を続けています。
まとめ|石油掘削から始まった月岡温泉の100年以上

月岡温泉の歴史は、大正4年(1915年)に始まりました。
きっかけとなったのは、温泉を探すための掘削ではなく、石油を求めて行われていた掘削でした。
そこで偶然温泉が湧き出し、月岡は湯治場として歩み始めます。
その後、時代とともに旅館や温泉街が発展し、高度経済成長期には「新潟の奥座敷」と呼ばれる観光温泉地として、多くの人に親しまれるようになりました。
しかし、1990年代以降は宿泊客が減少し、閉鎖する店や空き店舗が増えるなど、温泉街は厳しい時代を迎えます。
そこから再び始まったのが、温泉街そのものの魅力を高めるまちづくりでした。
空き店舗を活用した店が生まれ、旅館の中だけではなく、温泉街を歩きながら新潟の食や文化を楽しめる場所へと変わっていきました。
石油を求めて掘られた場所から始まり、湯治場へ。
湯治場から「新潟の奥座敷」へ。
そして現在は、「歩きたくなる温泉街」へ。
月岡温泉は、100年以上の間、同じ姿のまま続いてきた温泉地ではありません。
時代に合わせて姿を変えながら、温泉を中心とした町をつないできた場所です。
現在の月岡温泉を歩いてみると、旅館や新しい店が並ぶ街の中にも、石油掘削から偶然始まった100年以上前の歴史が今につながっていることが見えてきます。



