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天朝山

水原町が、新潟県の中心だった?

正直に言うと、私は勉強が得意ではない。

特に歴史は苦手だった。

鎌倉幕府が何年だったかも怪しいし、学生の頃はテストが終われば全部忘れていた。

だから歴史というのは、

「遠くの偉い人たちの話」

だと思っていた。

少なくとも、自分が住んでいる町とは関係ないと思っていた。

だから、これを知った時は少し混乱した。

だって、新潟県の中心といえば新潟市だと思っていたからだ。

子どもの頃からそう教わったわけではない。

ただ、何となく。

県庁がある。

人も多い。

だから、新潟県の中心は昔から新潟市だったのだろうと思っていた。

ところが。

明治維新が始まった頃、新潟県の中心は、新潟市ではなかった。

阿賀野市水原だった。

「え?水原が?」

そう思う人がほとんどだと思う。

私もそうだった。

1868年(明治元年)。

戊辰戦争が終わり、日本という国が大きく変わろうとしていた時代。

新しい政府は、越後の政治を行うための拠点として、水原に役所を置いた。

これが「新潟府」。

その後、「水原県」と名前を変えることになる。

つまり、一時期ではあるが、水原は今の新潟県の政治と行政の中心だったのである。

今の感覚で言えば、

「県庁が阿賀野市にあった」

ということになる。

そう考えると、少し不思議な気持ちになる。

普段、何気なく歩いている水原の町。

商店街を歩き、瓢湖へ向かい、天朝山を見上げる。

その場所が、150年以上前には、新潟県全体を動かす中心地だった。

しかも、それは何百年も昔の話ではない。

たった150年ほど前の出来事である。

もしかすると私たちは、

「昔から何もない地方の町」

だと思い込んでいただけで、

実際には、一度だけ新潟県の中心になった特別な町に暮らしているのかもしれない。

そして、その歴史をずっと見続けていた場所が、あの小さな山。

天朝山なのである。

目次

なぜ、新潟ではなく水原だったのか

ここで、誰もが同じ疑問を持つ。

「でも、なんで水原だったの?」

今の感覚で考えると、不思議で仕方がない。

県庁を置くなら、新潟市の方が大きい。

港もある。

人も集まる。

それなのに、なぜ水原が選ばれたのだろうか。

実は当時の水原は、私たちが思っている以上に栄えていた町だった。

まず、水原には役所があった。

江戸時代から、この地域を治めるための重要な行政の町だったのである。

さらに、大きかったのが阿賀野川だった。

今は橋を車で渡るだけだが、当時の阿賀野川は高速道路のような存在だった。

人も。

米も。

お金も。

物資も。

すべてが船で運ばれていた。

そして、その水運の中心の一つが水原だった。

さらに、この町には市島家という巨大な存在があった。

市島家は、日本有数の豪農として知られ、広大な土地と莫大な財力を持っていた。

今の言葉で言えば、

「お金がある。」

「人がいる。」

「建物がある。」

「行政を始められる。」

その条件が、すでに揃っていた町だったのである。

明治維新の頃、日本中は大混乱だった。

新政府が必要としていたのは、

「一番大きな町」

ではなかった。

「今すぐ行政を動かせる町」

だった。

その条件を考えた時、

新政府は、

「まずは水原なら大丈夫だ。」

そう判断したのかもしれない。

考えてみれば、不思議な話である。

私たちは子どもの頃から、

「田舎だから。」

「何もない町だから。」

そんな言葉を聞きながら育ってきた。

しかし、150年以上前。

この町は、新潟県を動かせるだけの力を持っていた。

もしかすると私たち阿賀野市民は、

知らないうちに、

“昔のお金持ちの町”の歴史を受け継いでいるのかもしれない。

実は、天朝山は人が造った山だった

そして、天朝山の話はここからが本番である。

私はずっと思っていた。

天朝山は、小さいけれど山なのだと。

春になると桜が咲き。

子どもの頃は遊び場になり。

大人になると散歩コースになる。

そんな、昔からそこにある普通の山。

しかし、それは違った。

天朝山は、人が造った山だったのである。

時代は江戸時代後期。

日本有数の豪農だった市島家は、水原に広大な別邸庭園「継志園(けいしえん)」を築くことを決めた。

そして天保8年(1837年)。

その庭園の中心となる築山の工事が始まった。

今のような重機はない。

ショベルカーも、ダンプカーもない。

人が土を掘り。

人が土を運び。

人が積み上げた。

記録によると、5人1組になって土を運び続けたという。

それを約5年間。

そうして完成したのが、現在の天朝山だった。

つまり、私たちが子どもの頃から見ていたあの山は、自然が造ったものではなく、人の力だけで造られた巨大な土木工事の跡だったのである。

ここで、さらに驚く話がある。

地元には昔から、

「瓢湖を掘った土で、天朝山を造った」

という言い伝えが残っている。

もちろん、すべてが完全に証明されているわけではない。

しかし、この話は現在でも非常に有力な伝承として語り継がれている。

もしこれが本当なら。

約200年前の人々は、

まず瓢湖を掘った。

そして、その時に出た大量の土を運び。

その土で、天朝山を築いたことになる。

そう考えると、少し景色が変わって見えてくる。

私たちは今まで、

「桜がきれいな公園」

「子どもの頃に遊んだ場所」

くらいに思っていた。

しかし実際には。

そこは、豪農たちの夢が形になった場所であり、

新潟県が始まった時代を見ていた場所であり、

約200年前の人たちの努力が、今もそのまま残っている場所だったのである。

私たちは知らなかっただけで、

ずっと約200年の歴史の上を歩いていたのかもしれない。

なぜ、水原はたった8か月で県都ではなくなったのか

ここまで読むと、また一つ疑問が出てくる。

「そんなにすごい町だったのに、なぜ水原は県都ではなくなったの?」

正直、私も最初はそう思った。

何か失敗したのだろうか。

誰かと争ったのだろうか。

あるいは、水原に問題があったのだろうか。

しかし、調べていくと、どうもそうではないらしい。

そもそも明治維新の頃、日本中が大混乱だった。

260年以上続いた江戸幕府が終わり、新しい国を作らなければならなかった。

今までのルールは通用しない。

県も、役所も、政治の仕組みも、すべて作り直している最中だったのである。

その中で新政府が最初に考えたのは、

「どこが一番大きい町か」

ではなかった。

「どこなら、今すぐ行政を始められるか」

だった。

その答えが、水原だった。

役所がある。

人がいる。

お金がある。

建物がある。

だから、新潟県の始まりは水原になった。

しかし、少しずつ世の中が落ち着いてくると、別のことが重要になってきた。

それが、港だった。

当時の日本にとって、新潟港は日本海側最大級の重要な港の一つだった。

人も集まる。

物も集まる。

これからの新潟県を考えた時、政治と経済の中心は、新潟港のある新潟の方が適していた。

そして県庁は、新潟へ移されることになった。

つまり。

水原が失敗したわけではなかった。

負けたわけでもなかった。

むしろ逆だった。

日本という国が大きく変わる、その一番混乱していた瞬間。

新しい時代を始める役目を任されたのが、水原だったのである。

たった8か月。

数字だけ見ると短く感じる。

しかし、その8か月は、

新しい新潟県が生まれるために必要だった8か月だったのかもしれない。

だから私は思う。

水原は、県都になれなかった町ではない。

水原は、

日本が変わる瞬間を任された町だった。

もし、水原が新潟県の中心のままだったら

ここからは、少しだけ想像の話になる。

もちろん、歴史に「もし」はない。

しかし、天朝山の上に立つと、どうしても考えてしまう。

もし。

もし、県庁が新潟へ移転していなかったら。

もし、水原がそのまま新潟県の中心だったら。

今、私たちが見ている景色は、どれほど違っていただろう。

県庁があり。

大きな駅があり。

会社が集まり。

人が集まり。

今とはまったく違う町並みが、この場所に広がっていたのかもしれない。

もちろん、それは誰にも分からない。

歴史は、一度しか進まないからだ。

ただ、一つだけ確かなことがある。

天朝山は、そのすべてを見てきた。

豪農たちが、この山を築いたことも。

水原が、新潟県の中心になったことも。

そして、その役目を終え、新しい時代へ歩き始めたことも。

さらに、その後の150年以上にわたる、この町の歴史も。

私たちは、子どもの頃から、この場所を知っている。

桜を見た。

遊んだ。

走った。

遠足にも来た。

けれど、その景色を「歴史」だと思ったことは、一度もなかった。

でも、今日だけは少し見方が変わる。

天朝山は、ただの公園ではない。

ただの桜の名所でもない。

約200年前、人の手だけで築かれた山であり。

新潟県が始まった瞬間を見届けた場所であり。

そして、私たちの町が、一度だけ新潟県の中心になった証人でもある。

考えてみれば、不思議な話だ。

私たちはずっと、

その歴史の上で遊び、

その歴史の横を歩き、

その歴史を知らないまま大人になった。

だからもし。

次に天朝山へ行くことがあったら。

ほんの少しだけ、立ち止まってほしい。

そして、目の前の景色を見てほしい。

そこにあるのは、ただの公園ではない。

私たちの町が、一度だけ新潟県の中心になった記憶そのものだからである。

そして150年後。

天朝山は、今日も変わらず、人の笑い声を見守っている。

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