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村杉温泉

「村杉温泉には、医者が育たない。」

昔から、この温泉にはそんな言葉が残っています。

もちろん、本当に医者が必要なかったわけではありません。

それほどまでに、この温泉の効能が信じられ、人々が病を癒すために訪れたという意味です。

そして実際、村杉温泉はかつて、日本有数の湯治場として全国に知られた温泉でした。

九州から。

東京から。

そして北海道からも。

多くの人々が、この五頭山の麓にある小さな温泉街を目指してやって来たのです。

しかし、現在の村杉温泉を訪れると、その話が少し信じられなくなるかもしれません。

なぜなら、現在の村杉温泉には六軒の宿しかないからです。

長生館。

環翠楼。

角屋旅館。

川上屋旅館。

割烹旅館室町。

石原館。

初めて訪れた人は、おそらくこう感じるでしょう。

「思っていたより、小さな温泉街だ。」

それは間違いではありません。

村杉温泉には、大きな歓楽街はありません。

巨大なホテルもありません。

温泉街を歩いていても、賑やかな観光地という印象はあまり受けません。

しかし、それは現在の村杉温泉の姿です。

今から100年以上前。

大正時代の村杉温泉には、「ヨバ」と呼ばれた共同浴場を中心に、17軒もの湯治宿が建ち並んでいました。

人々は短くても一週間。

長い人は一か月以上滞在しました。

現代のような一泊二日の旅行ではありません。

病を癒すため。

体を休めるため。

避暑や避寒のため。

人々は、この村で暮らすように時間を過ごしていたのです。

当時の記録を見ると、村杉温泉は単なる観光地ではありませんでした。

人が健康を取り戻すために集まる、一つの療養の町だったのです。

さらに大正8年(1919年)には、旅館の主人たちが共同で乗合自動車組合を設立。

当時としては珍しかったフォードの乗合自動車を走らせ、新潟県でも最も早い時期の路線バスとして、多くの湯治客を村杉温泉へ運びました。

そして、大正時代。

村杉温泉は、日本中から人が集まる理由を手に入れます。

それが、「ラジウム」でした。

大正3年(1914年)、新潟医学専門学校(現在の新潟大学医学部)の調査によって、村杉温泉には日本有数のラジウムが含まれていることが明らかになったのです。

「薬師の湯」。

「子宝の湯」。

そして、

「医者が育たない温泉」。

その名は全国に広まり、村杉温泉は日本有数の湯治場として発展していきました。

しかし、私が一番不思議に思ったのは別のことでした。

700年の歴史。

日本有数のラジウム温泉。

かつて17軒もの湯治宿が並んだ温泉街。

それほど多くの人に愛された場所なのに、なぜ現在の村杉温泉は六軒の宿だけになったのでしょうか。

そして、なぜその六軒は、今もなお村杉温泉を守り続けているのでしょうか。

その答えは、現在の村杉温泉を支える六軒の宿を見ていくと、少しずつ分かってきます。

目次

なぜ村杉温泉は700年も続いたのか

700年続く温泉は、日本全国を探してもそう多くありません。

まして、現在は六軒の宿しかない小さな温泉街が、700年もの間、人々に愛され続けてきた理由は何なのでしょうか。

その歴史は、室町時代まで遡ります。

建武2年(1335年)。

戦乱を逃れ、各地を流浪していた足利家尾張国の浪士・荒木正高は、この地で七日間続けて薬師如来の霊夢を見たと伝えられています。

お告げに従って湯を探したところ、温泉が湧き出しました。

これが、村杉温泉の始まりだと言われています。

荒木正高は、その場所に薬師堂を建立し、従者たちとともにこの地へ定住しました。

そして、薬師如来への感謝を込めて参道に松や杉、楓、欅を植えたと伝えられています。

やがて杉の木が増え、人々はこの場所を「杉の多い村」と呼ぶようになりました。

現在の「村杉」という地名の由来も、この言い伝えから生まれたと言われています。

もちろん、村杉温泉が700年続いた理由は、伝説だけではありません。

江戸時代になると、村杉温泉は新発田藩領の湯治場として知られるようになります。

宝永4年(1707年)には、新発田藩主・溝口家が村杉へ湯治に訪れた記録も残されています。

つまり、300年以上前にはすでに「体を癒やす温泉」として、多くの人に認められていたのです。

さらに明治時代。

明治維新で活躍した遠藤七郎は、村杉温泉の効能に大きな可能性を感じ、村人たちと協力して浴場の改修や整備を進めました。

この頃から村杉温泉は、地域の温泉地から、全国へ知られる温泉地へと変わり始めます。

そして、大正時代。

村杉温泉は、その名を全国に知らしめる大きな出来事を迎えます。

大正3年(1914年)、新潟医学専門学校、現在の新潟大学医学部の調査によって、村杉温泉に日本有数のラジウムが含まれていることが判明したのです。

「薬師の湯」。

「子宝の湯」。

そして、

「医者が育たない温泉」。

その評判は瞬く間に全国へ広がりました。

九州から。

東京から。

そして北海道からも。

多くの人々が、病を癒し、健康を取り戻すために、この五頭山の麓を目指しました。

しかし、村杉温泉が本当に特別だったのは、ラジウム温泉だったからだけではありません。

人々が、この場所で「暮らすように休んでいた」ことでした。

短い人でも一週間。

長い人は一か月以上。

人々は温泉に入り、休み、また温泉に入る。

それが村杉温泉の日常でした。

そして、その人々を支えていたのが、共同浴場「ヨバ」の周りに並んでいた17軒の湯治宿だったのです。

しかし現在、その17軒のうち残っているのは、わずか六軒だけです。

大正時代、村杉温泉には17軒の宿があった

現在の村杉温泉には、六軒の宿があります。

しかし、大正時代の村杉温泉には、共同浴場「ヨバ」を中心に17軒もの湯治宿が建ち並んでいました。

今の静かな温泉街からは、少し想像しにくいかもしれません。

当時の村杉温泉は、単なる観光地ではありませんでした。

人々が病を治し、体を休め、長い時間を過ごすための「療養の町」だったのです。

湯治客は、短い人でも一週間。

長い人になると、一か月以上滞在しました。

現在のような一泊二日の旅行ではありません。

朝になると、人々は共同浴場「ヨバ」へ向かいます。

温泉に入る。

休む。

食事をする。

散歩をする。

また温泉に入る。

そんな生活を、何日も、何週間も繰り返していました。

当時の記録には、

「旅館の庭園は美しく、まるで別天地にいるようであった」

と記されています。

また、村杉温泉の旅館は、現在のような旅館とは少し違っていました。

宿代と湯銭だけを払い、食事は自分で用意する。

いわゆる「自炊湯治」が一般的だったのです。

食材は水原町から取り寄せ、山菜や川魚は地元で調達しました。

豪華な旅館ではありません。

しかし、その分、誰もが長く滞在できる温泉でした。

そして、大正8年(1919年)。

旅館の主人たちは共同で「村杉温泉乗合自動車組合」を設立します。

導入されたのは、当時としては最先端だった6人乗りのフォード自動車。

新潟県でも最も早い時期の路線バスとして、水原と村杉温泉を結びました。

今では考えにくいことですが、100年以上前の村杉温泉は、最先端の交通網を持つ温泉地でもあったのです。

当時、村杉温泉には17軒の宿がありました。

長生館。

石原館。

川上屋。

角屋。

延生館。

菱屋。

材木屋。

阿らせ。

そして今では名前だけが記録に残る宿々。

当時の村杉温泉には、今では想像できないほど多くの人が暮らし、湯に入り、時間を過ごしていました。

しかし、多くの宿は時代の流れとともに姿を消していきました。

そして現在。

700年の歴史を受け継いでいるのは、わずか六軒の宿だけです。

では、その六軒は、どのようにして今まで残り続けてきたのでしょうか。

風雅の宿 長生館

もし、

「村杉温泉を代表する宿はどこですか?」

と聞かれたら、多くの人が最初に名前を挙げるのが長生館でしょう。

現在の村杉温泉を語る上で、長生館の存在は欠かすことができません。

しかし、長生館の魅力は、単に有名な旅館だからという理由だけではありません。

長生館の歴史は古く、大正時代にはすでに村杉温泉を代表する湯治宿の一つとして、多くの人々を迎えていました。

そして100年以上経った今も、その暖簾は守られ続けています。

長生館を訪れて最初に驚くのは、建物の大きさではありません。

「森の近さ」です。

旅館に足を踏み入れると、五頭山の自然がそのまま庭園へと続いているような感覚になります。

春には新緑。

夏には深い緑。

秋には紅葉。

冬には雪景色。

同じ場所なのに、季節によって全く違う宿のように見えるのです。

そして長生館を代表するのが、男女合わせて約1000坪を誇る庭園大露天風呂です。

新潟県内でも最大級の広さを持つ露天風呂で、村杉温泉の象徴とも言える存在です。

露天風呂に入ると、不思議なことに周囲の音が消えていきます。

聞こえるのは風の音。

鳥の声。

そして、お湯の流れる音だけ。

現代の温泉旅館には、豪華な設備を持つ宿がたくさんあります。

しかし長生館が長い間愛され続けてきた理由は、豪華さではなく、「何もしない時間」を楽しめることなのかもしれません。

もちろん、長生館の魅力は露天風呂だけではありません。

約4000坪の庭園。

貸切露天風呂。

四季の料理。

そして、日本有数のラジウム温泉。

それらすべてが合わさって、「村杉温泉といえば長生館」と言われる存在になったのでしょう。

しかし、村杉温泉の魅力は長生館だけではありません。

長生館とは全く違う時間が流れる宿が、この温泉街にはもう一軒あります。

それが、環翠楼です。

環翠楼

長生館が「村杉温泉の顔」だとしたら。

環翠楼は、「村杉温泉の記憶」なのかもしれません。

村杉温泉を歩いていると、不思議に思うことがあります。

700年も続く温泉街なのに、どこか時間がゆっくり流れている。

急いで歩く人がいない。

大きな看板もない。

派手な音楽も流れていません。

そして、その空気を最も感じられる場所が、環翠楼です。

環翠楼の歴史は古く、現在も村杉温泉を代表する老舗旅館の一つとして知られています。

しかし、この宿の魅力は、歴史が古いことだけではありません。

門をくぐった瞬間から、空気が変わるのです。

約6000坪の敷地。

木々に囲まれた庭園。

そして、明治・大正時代の趣を今に残す木造建築。

現代の旅館に泊まるというより、昔の日本の時間の中に入っていくような感覚になります。

特に印象的なのが、離れ形式の客室です。

大きなホテルのように、多くの宿泊客とすれ違うことはありません。

部屋へ向かう途中も、聞こえるのは風の音と鳥の声くらい。

だからこそ、多くの人が「静かだった」という感想を残すのかもしれません。

春には庭園に花が咲き。

夏には木々が深い緑をつくり。

秋には紅葉が庭を彩り。

冬には雪が静かに積もります。

村杉温泉の四季を、一番近くで感じられる宿と言ってもいいでしょう。

そして、環翠楼にはもう一つ特徴があります。

それは、「何もしない時間」が許されることです。

観光地へ急ぐ必要もありません。

スマートフォンを見る必要もありません。

ただ、庭を眺め。

温泉に入り。

また庭を眺める。

昔の人たちが湯治で過ごした時間も、きっとこういう時間だったのではないでしょうか。

今では珍しくなった、時間を忘れるための宿。

それが、環翠楼なのかもしれません。

しかし、村杉温泉の魅力は、歴史ある宿だけではありません。

もっと身近で、もっと懐かしい時間が流れる宿もあります。

それが、角屋旅館です。

角屋旅館

長生館が「村杉温泉の顔」。

環翠楼が「村杉温泉の記憶」だとしたら。

角屋旅館は、「村杉温泉の日常」なのかもしれません。

村杉温泉には、昔から湯治文化がありました。

短い人でも一週間。

長い人になると、一か月以上。

人々は温泉に入り、休み、また温泉に入る。

そんな暮らすような時間を過ごしていました。

角屋旅館を訪れると、その文化が今も残っているように感じます。

外観は、どこか懐かしい日本家屋。

豪華なロビーがあるわけではありません。

大きな庭園があるわけでもありません。

しかし、不思議と落ち着くのです。

まるで、田舎の親戚の家に帰ってきたような感覚になります。

角屋旅館の魅力の一つが、四つの貸切風呂です。

現在では珍しくなった「誰にも気を使わずに入れる温泉」。

家族で。

夫婦で。

友人同士で。

静かな時間を過ごすことができます。

そして、角屋旅館を語る上で欠かせないのが食事です。

自家栽培の野菜。

自家製味噌。

地元産のコシヒカリ。

派手な料理ではありません。

しかし、その一つ一つに、この土地の暮らしが詰まっています。

昔の湯治客たちも、きっと同じように、この土地の食事を食べ、この温泉に入り、この村で時間を過ごしていたのでしょう。

村杉温泉が700年続いてきた理由は、ラジウムだけではありません。

「また帰ってきたい。」

そう思える場所があったからなのかもしれません。

そして、その気持ちを今も最も感じられる宿が、角屋旅館なのだと思います。

しかし、村杉温泉には、さらに昔ながらの湯治文化を色濃く残す宿があります。

それが、川上屋旅館です。

川上屋旅館

長生館が「村杉温泉の顔」。

環翠楼が「村杉温泉の記憶」。

角屋旅館が「村杉温泉の日常」だとしたら。

川上屋旅館は、「村杉温泉の湯治文化」そのものなのかもしれません。

村杉温泉が全国に知られるようになった理由は、観光地だったからではありません。

人々が、体を休めるために訪れる場所だったからです。

短い人でも一週間。

長ければ一か月以上。

温泉に入り。

休み。

また温泉に入る。

そんな時間を過ごすために、多くの人が村杉温泉を訪れました。

川上屋旅館には、その頃の空気が今も残っているように感じます。

館内は決して派手ではありません。

豪華なロビーがあるわけでもありません。

しかし、不思議と落ち着きます。

窓の外には五頭山の自然。

聞こえてくるのは、風の音と鳥の声。

そして、時々聞こえる温泉の流れる音だけです。

今の時代、「何もしない時間」はとても贅沢なものになりました。

スマートフォンを見ない。

時間を気にしない。

予定を考えない。

ただ温泉に入り、ゆっくり休む。

川上屋旅館は、そんな時間を思い出させてくれる宿なのかもしれません。

もちろん、村杉温泉を代表するラジウム温泉も、この宿の大きな魅力です。

かつて多くの湯治客たちが、この湯に希望を託しました。

病を治したい。

元気になりたい。

もう一度働けるようになりたい。

そんな願いを抱えて、人々は全国からこの場所を訪れていたのです。

700年という歴史は、温泉だけでは続きません。

そこに、人を休ませる場所があったからこそ続いてきたのでしょう。

川上屋旅館を見ていると、村杉温泉がなぜ「医者が育たない温泉」と呼ばれたのか、少し分かる気がします。

しかし、村杉温泉には、もう一つ違う魅力を持つ宿があります。

それは、「食」を大切にしてきた宿。

割烹旅館 室町です。

割烹旅館 室町

長生館が「村杉温泉の顔」。

環翠楼が「村杉温泉の記憶」。

角屋旅館が「村杉温泉の日常」。

川上屋旅館が「村杉温泉の湯治文化」だとしたら。

割烹旅館室町は、「村杉温泉の食」を守り続けてきた宿なのかもしれません。

村杉温泉は、昔から長く滞在する湯治客の町でした。

一週間。

二週間。

時には一か月以上。

人々はこの場所で暮らすように過ごしていました。

そして、長い時間を過ごすためには、温泉だけでは足りません。

毎日の食事が必要でした。

そのため村杉温泉では、古くから「食」がとても大切にされてきました。

割烹旅館室町は、その文化を今も色濃く残している宿です。

客室はわずか五室。

村杉温泉の中でも最も小さな宿の一つです。

しかし、小さいからこそできるおもてなしがあります。

料理は、その季節、その日に最も美味しいものを中心に作られます。

春には山菜。

夏には川魚。

秋には新米。

冬には温かい郷土料理。

決して派手ではありません。

しかし、一品一品を食べていると、この土地の四季そのものを味わっているような気持ちになります。

村杉温泉が湯治場として栄えた時代も、人々は毎日こうして食事を楽しみ、体を休め、また明日の湯治に備えていたのでしょう。

もちろん、ラジウム温泉も楽しめます。

しかし、室町を訪れた人が最後に思い出すのは、温泉だけではないのかもしれません。

「あの料理、美味しかったな。」

そんな記憶もまた、人をもう一度村杉温泉へ帰ってこさせる理由なのだと思います。

温泉は体を癒します。

そして食事は、人の心を癒します。

割烹旅館室町は、その両方を守り続けてきた宿なのかもしれません。

そして村杉温泉には、もう一つ。

700年の歴史の中で変わらない姿を守り続けてきた宿があります。

それが、石原館です。

石原館

長生館が「村杉温泉の顔」。

環翠楼が「村杉温泉の記憶」。

角屋旅館が「村杉温泉の日常」。

川上屋旅館が「村杉温泉の湯治文化」。

割烹旅館室町が「村杉温泉の食」だとしたら。

石原館は、「村杉温泉の時間」を守り続けてきた宿なのかもしれません。

村杉温泉を歩いていると、不思議なことに気づきます。

それは、この温泉街には「急ぐ理由」がないということです。

観光地のように、次の目的地へ向かう必要がありません。

写真をたくさん撮る必要もありません。

ただ、温泉に入り、休み、また温泉に入る。

700年前から続いてきた時間が、今もこの場所には流れています。

石原館は、そんな村杉温泉の時間を静かに守り続けてきた宿です。

決して大きな旅館ではありません。

豪華な設備があるわけでもありません。

しかし、その分だけ、この土地が持つ本来の空気を感じることができます。

窓の外には、五頭山の景色。

耳を澄ませば、風の音。

季節が変われば、見える景色も変わります。

春には新緑。

夏には深い緑。

秋には紅葉。

冬には雪景色。

けれど、不思議なことに、この宿で流れる時間だけは昔から変わっていないように感じます。

村杉温泉が全国から湯治客を迎えていた時代も、人々は同じように温泉に入り、食事をし、休み、また明日を迎えていたのでしょう。

今の時代、何もしない時間は、とても贅沢なものになりました。

だからこそ、人は時々、こういう場所を求めるのかもしれません。

石原館は、700年の歴史を語る宿ではありません。

700年間、人が休み続けてきた時間を、今も静かに守り続けている宿なのだと思います。

そして、その時間は石原館だけのものではありません。

村杉温泉という小さな温泉街全体に、今も変わらず流れ続けているのかもしれません。

まとめ

「村杉温泉には、医者が育たない。」

この記事を書き始めた時、この言葉は少し大げさな言い伝えのように思えました。

しかし、村杉温泉の700年の歴史を辿り、今も残る六軒の宿を見ていくうちに、その意味が少しだけ分かったような気がします。

かつて、村杉温泉には17軒の宿がありました。

全国から人が集まりました。

病を治したい人。

体を休めたい人。

子どもを授かりたいと願う人。

そして、ただ少しだけ日常から離れたかった人。

たくさんの人が、この五頭山の麓を目指しました。

しかし、時代は変わります。

人の暮らしも変わりました。

旅の形も変わりました。

そして、17軒あった宿は、六軒になりました。

長生館。

環翠楼。

角屋旅館。

川上屋旅館。

割烹旅館室町。

石原館。

考えてみれば、不思議なことです。

700年前。

この場所で初めて温泉を見つけた人は、令和の時代まで村杉温泉が残っているとは思わなかったでしょう。

大正時代。

17軒の湯治宿が建ち並んでいた頃の人たちも、100年後に六軒の宿が暖簾を守り続けているとは想像しなかったでしょう。

でも、残りました。

なぜなのでしょうか。

その答えは、とても単純なのかもしれません。

人は、疲れます。

人は、休みたくなります。

そして人は、ときどき、

「帰る場所」が欲しくなるのです。

村杉温泉は、700年間。

そんな人たちを、ずっと待ち続けてきました。

だから村杉温泉は、

「また行きたい温泉」ではなく、

「また帰りたくなる温泉」なのかもしれません。

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